わたしたちが、いらなくなる日

Waku Waku Gakko 尾道

ふと、考えてしまうことがある。

わたしたちのフリースクールが、いつか要らなくなる日のことを。


運営は、正直、厳しい

きれいごとは抜きにして、フリースクールの運営は厳しい。

徐々にその社会的意義が認められ始めており、利用家庭にも運営団体にも、行政の支援が入る自治体が増えている。しかし現状、わたしたちには自治体からの法的な支援がない。心ある方からの寄付やさまざまな助成金がどれだけ支えになっているかは言い表せないが、運営の主軸は、参加してくれるこどもたちの家庭からの参加料だ。

参加人数が多ければ簡単に黒字になるような事業ではない。けれど、人数が少ないとさらに厳しい。だからフリースクールを利用したい人とつながりたいし、もっと多くの子に利用してもらいたい。

——そう思いながら、立ち止まる気持ちがある。

「不登校が増えている」という言葉を聞くたびに、こどもたちのつらさを思う。そして同時に、彼らの受け皿になれないか、とも考えてしまう。それは、ニーズがある=事業の追い風として捉えることもできるのかもしれない。

そのたび、この捉え方はどうなのだろう、と立ち止まる。

わたしは、こどもたちのしんどさを食い物にしたいわけではない。これは、わざわざ書くまでもないことだと思っている。それでも、あえて書いておきたい。

不登校のこどもが増える。
フリースクールの需要が増える。
事業が拡大する。
経営が安定する。

——この流れは、論理としては筋が通っている。

でも、その筋道のなかで、いつのまにか「こどもにとって公教育がしんどい場であること」が事業の前提になってしまう。
事業を続けるために、こどもの不幸を必要としたくない。

この問いを、ずっと抱えている。

それでも、こどもたちの場として、確かにある

そんな葛藤を抱えながらも、日々は続いていく。

来てくれるこどもたちがいて、家庭があって、応援してくれる地域の人がいる。
わたしたちの場には、確かに意味がある——そう感じている。

「いま」「ここ」のこどもたちを取り巻く社会インフラの一つとして、フリースクールは重要な役割を担っている。だからこそ、本来は公的な支援で運用されるのが理想だ。

それでも、ときどき考える。
わたしたちの場が、もしも要らなくなったとしたら——それは、どんな未来だろうか、と。

ふたつの未来は、たぶん同じ姿

ひとつめは、わたしたちのフリースクールが要らなくなる未来。
地元の公立の学校が変わって、すべてのこどもが安心して通える場になって、別枠の「フリースクール」という仕組みが必要なくなる未来。
いろんな持ち味の学校があって選べたり、いろんな子がいても

ふたつめは、わたしたちのような場が、学校を選ぶのと同じくらい当たり前になる未来。
一人ひとりのペースで、一人ひとりのやり方で学んでいいということが、特別なことではなくなる未来。「フリースクール」という呼び名自体が意味を失うほど、そのあり方が普通になる未来。
「え?今日小学校行くの?俺はワクワクに行くよ!」

このふたつの未来は、まるで反対のことのように見える。
けれど、たぶん同じ姿をしている。

どちらの未来でも、「学校に行ける子/行けない子」「普通の場/特別な場」という線引きがなくなっている。名前で区別する必要が、なくなっている。

こどもたちは、自分のまちで、自分のペースで育っていける。

矛盾を、抱えたまま

わたしたちは、そういう未来を願いながら、今日の運営をしている。

自分たちの存続を願うことと、自分たちの消滅を願うことが、同居している。
この矛盾を、解消しないで抱えているのは、楽ではない。

事業として一生懸命運営を続けながら、いつか必要なくなることを願ってもいる。

——その矛盾を抱えたまま、今日も、こどもたちと向きあっている。


耕太

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