ぐにゃぐにゃのままで——名前で決めない、そばにいるということ

Waku Waku Gakko 尾道

わたしは今、尾道市向島でWaku Waku Gakko 尾道というフリースクールの運営をしている。

フリースクールという言葉、まだまだ市民権を得ていないと思う。
知らない人にとっては得体の知れない存在、と言ってもいいかもしれない。
また、フリースクールと名乗るのがわたしたちを表しているとも簡単には言えない。

学校に行きたいけれど行けないこどもたちの居場所。
「不登校」という言葉に含まれるネガティブなニュアンスにも敏感でいたい。
学校を選ばないこどもたちが学ぶ場、と言ったらいいのだろうか。

毎日通って卒業までそこで過ごす場なのか?
学校復帰のエネルギーが溜まるまで利用する場なのか?
ときどき訪れる居場所なのか?

どれもそうで、どれも違う気がする。

「Waku Waku Gakkoは一体何者なんだ」と尋ねられることがある。
フリースクールなのかオルタナティブスクールなのか、どっちなんだい?

何者なのかをはっきりさせれば、「はっきりした場を求めている人」にとっては、そこを選ぶ理由になるのかもしれない。
でも一方で、そうでない文脈で関わりたかった人にとっては、閉ざされてしまうことにもなる。

はっきりさせることで、届くものがあり、届かなくなるものがある。

名前があるから、届くものがある

名前をつけるということ。

外国籍のこどもへの支援、不登校支援、障害者福祉、発達特性への療育支援。
名前をつけることで、届く支援がある。

たとえば発達特性のあるこどもが、病院で診断を受けることで、放課後等デイサービスを月に何回か利用できるようになる。
回数は診断の内容や程度によって決まり、家庭の負担はかなり軽くなる。
そういう施設は、利用者数によって助成金が入る仕組みになっていて、運営もまわっていく仕組み。

一方で、わたしが関わっているフリースクールは、診断の有無によらず、すべてのこどもを対象としている。
そうした場には、現状、わたしの自治体では法的な支援がほとんど入らない。
利用する家庭にも、運営する側にも、制度的な支えがなく、どちらもしんどさを抱えている。

徐々に公的支援の整備されている自治体も増えており、わたしたちの暮らす町でもフリースクール等を利用する家庭や施設への支援も形になっていくと信じている。

ただ、はっきりしない団体に、公的な支援が回るのは現実的ではない。
どのような状況の子が利用する場なのか、名前を付ける必要が、多かれ少なかれある。

名前をつけてラベリングしていくことは、保護者にも関係者にも、税金の使われ方の公平感を担保するためにも、必要なことなんだと思う。

それだけでなく、そのラベリングの過程で、一人ひとりのこどもがどういう状態にあるのかをよく調べ、より適切な支援につながったり、効果的な環境が設計されたりする。

ラベリングには、ちゃんと意味がある。

でも、ぐにゃぐにゃした存在が、見えなくなる

ただ——同時に、こうも思う。

名前がつくことで、その名前に収まらない存在が、見えにくくなる。

「不登校のこども」
「発達特性のあるこども」
「外国籍のこども」

——名前がつくと、制度が動き出す。

でもその名前のどれにも、完全には当てはまらないこどもたちがいる。
どっちつかずのこども、どの枠にも収まらない、でも確かにそこにいる子。

カテゴリーに収まらない、でも確かにそこにいる存在のこと。

ぐにゃぐにゃという言葉、わかりにくいかもしれない。
はっきりしない、という意味だけではない。変容していく、という意味に近いのかもしれない。

今日のこの子と、半年後のこの子は違う。

ひとりの人のなかに、いくつもの状態がある。
ラベルを貼った瞬間に、その貼った瞬間の姿で固定されてしまう。
でも、人はそんなにはっきりしていない。

ぐにゃぐにゃと変容していくこと

このぐにゃぐにゃと変容していくこと、わたしの中ではとても大事にしたいことかもしれない。

「君はどこの枠に収まりそうだね」と線を引くのではなくて、「君は今、どんなふうにそこにいるんだろう」と見つめる。
ずっと答えは出ない、定義できない、問いが続いていく。
答えを急がずに、その人のぐにゃぐにゃに付き合う。

これは簡単ではない。
制度は名前を求める。
助成金の申請書も、支援計画も、名前がないと書けない。
わたし自身、名前をつける場面に日々立っている。

それでも——名前をつけながら、その名前がすべてではないことを忘れずにいたい。

わたしが関わっている場を訪れるこどもたち、それほど多い人数ではないけれど、それぞれの家庭、それぞれのこどもで、考えていることも抱えていることも違う。
「こういう場ですよ」と一言で説明しようとすると、必ず何かがこぼれ落ちる。
だから、場のかたち自体がぐにゃぐにゃと変容していく。
それでいい、と思うようになってきた。

どっちなんだよ、を、抱えたまま

名前をつけるべきか、つけないべきか。
ラベリングはこどもを助けるのか、閉じ込めるのか。

「どっちなんだよ」と、自分でも思う。

でもたぶん、どっちか一方に答えを出すことではないのだろう。
名前をつけることで届く支援がある、という事実を受け入れる。
同時に、名前で決まらないぐにゃぐにゃした存在がいる、という事実も抱える。
その対立を、曖昧なまま持ち続ける。

きれいに整理しないこと。
白黒つけないこと。
問いを抱えたまま、今日のこどもに、今日の人に、そばにいること。

向島の朝、鶏に餌をやりながら、今日関わるこどもたちのことをぼんやり考える。
あの子は今日、どんな顔をして来るだろう。
先週と今週で、少し違う顔をしているかもしれない。
そのぐにゃぐにゃを、ぐにゃぐにゃのまま、受け取れる自分でいたい。

名前で決めない、そばにいるということ。
そのかたちを、わたしは探している。

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